文旦と母のどうしようもない愛の話
文旦って美味しいけど、皮が厚くて剥くのが大変ですよね。
私も毎回苦労しながら剥いています。
やっとの思いで剥き終わって、
さあ食べようと思ったその瞬間。
横からさっと掻っ攫っていくのが、我が息子です。
「お母さんが剥いてくれるから美味しいんだよ」
……なんともまあ、都合のいい話です。
それならもう剥かない、と思うのに。
文句を言いながら、結局また剥いてしまう。
これが夫なら、絶対に剥きません(笑)
それなのに、息子だとやってしまう。
これが母親の性なんでしょうね。
わかっていても、つい手を貸してしまう
うちの息子は、発達障害があります。
皮を剥くこと、魚の骨を取ること。
手羽先のような、少し食べにくいもの。
そういう「ちょっとしたこと」が、苦手です。
本当は、自分でやった方がいい。
そう思いながらも、つい手を貸してしまう。
甘やかしているのかな、と思うこともあります。
でも、外ではちゃんと自分でやっているし、
家では、まぁいいかと思ってしまうんです。
母になって始めたわかったこと
母になるまでは、
仏教でいう「慈悲」が母の愛に例えられることが、
正直よくわかりませんでした。
でも今は、少しわかる気がします。
母親って、いつも子供のことを気にしていて、
子供が嬉しければ、自分も嬉しい。
子供が悲しければ、自分も悲しい。
気がつけば、
自分のことよりも、その子のことが一番になっている。
子供と生きる中で感じた喜びと苦しみ
私の人生で一番嬉しかったことも、
一番苦しかったことも、
すべて子供ができてからでした。
妊娠中はずっと入院して、
無事に生まれてくるのか、不安な毎日。
生まれてからも、
発達障害があることで、
仲間外れにされたり、不登校になったり。
息子と一緒に、たくさん泣いて、たくさん笑ってきました
それでも不幸だと思わなかった理由
でも、不思議なんです。
私は、自分のことを不幸だと思ったことがありません。
周りから見れば、そう見えたのかもしれません。
実際、「かわいそう」と言われたこともあります。
新興宗教に誘われたこともありました。
(お寺の嫁なのに、ちょっと笑ってしまいますよね)
阿弥陀様の慈悲に支えられていた私
でも、私は思うんです。
あのときも、
そのときも、
今も――
ずっとそばで、見守ってくださっていたものがある。
阿弥陀様の慈悲は、
よく母の愛にたとえられます。
何をしてもらったわけじゃない。
何か特別に救われた実感があるわけでもない。
それでも、ただ、見捨てずに、
そのままの私を受けとめてくださっている。
思い通りにならなくても、
うまくできなくても、
つまずいても、遠回りしても。
それでもなお、
「そのままでいい」と、寄り添い続けてくださる。
そう考えると、
文句を言いながらも文旦を剥いてしまうこの気持ちも、
どこか似ているのかもしれません。
見返りがあるからじゃない。
ちゃんとできるからでもない。
母の愛と阿弥陀様の慈悲の違い
ただ、私たちは人だから。
母の愛でさえ、時に腹が立ったり、
「かわいそう」と言ってしまったり、
完全ではいられません。
でも、阿弥陀様の慈悲は違う。
どんなときでも、
どんな私でも、
ただ静かに、寄り添い続けてくださる。
そう思うと、
本当にすごいことだなと思うんです。
今日もまた、文旦の皮を剥きながら
今日もまた、文句を言いながら、
私は文旦の皮を剥いています。
もしかしたらそれも、
大きな慈悲の中で、
させてもらっていることなのかもしれません。


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